プロフィール


木内 淑規(きのうち としのり)プロフィール

tyインターネット書店アマゾンの”アパー・ビル経営部門”で一位を獲得した「賃貸サバイバル時代を勝ち残る「地域一番!」オンリーワン物件の作り方(ソフトバンク・クリエイティブ社)」の著者。賃貸経営コンサルティング。上級定期借家アドバイザー。大家さんや地主さんの相談にのっています。全国で出会う人達の「ウェルライフ」を合言葉に、水戸黄門のように全国行脚を遂行中!一生勉強!一生青春!1962年5月徳島県徳島市生まれ。四歳年下の妻と一女二男の子供たちと愛犬一匹。血液型O型、寅年生まれ、牡牛座。座右の銘は「~一生勉強、一生青春~」。

t-kinouchi

 

 

木内 淑規(きのうちとしのり)本名:木内 年則
1962年5月11日生まれ。血液型O型。

■ 現在

現在、私は、会員さんたちの”さまざまな問題解決”のため、セミナーや個別相談を行うために全国行脚をしています。そのさまざまな問題とは、主に「人生の自由な生き方」に関するものがほとんどです。

『人生の自由』を手に入れるのに必要なものは、「金銭的なゆとり」と「時間的なゆとり」です。

具体的には、

  • アパート・マンション経営で継続的な収入を得る方法
  • 複数の収入を作る方法
  • 独立・新規事業立ち上げ支援
  • 住宅ローン破たん者の再起支援
    などです。

そして、その中で最もウエイトを置いているのが、自らも現役大家として実践している不動産投資やアパート・マンション経営支援、土地活用支援です。

なぜ、不動産なのでしょう。

その理由は、アパート・マンション経営ほど継続的に、確実に、収入を得られる手法は少なく、複数の収入源を作るのも比較的簡単だからです。

確かに、不動産投資と聞くと、1989年のバブル崩壊後、大失敗して失意のどん底になった人たちを沢山見てきました。しかし、大失敗した人ほとんどは「売却益狙い」の人たちで、「継続的収入(家賃収入など)狙い」の人たちのほとんどは、現在、「時間的なゆとり」と「金銭的なゆとり」を手に入れています。

そのような意味からも、時間と金銭のゆとりを得て、素晴らしい人生を手に入れるための最も堅実で確実な方法は、「継続収入狙いの不動産」であると言えるでしょう。

また、現在のめまぐるしく変化する社会情勢や経営環境の変化は、おそらく後世の人たちの社会の教科書に掲載されるほど劇的なものです。

今まで信じ続けてきた人生の価値観やビジネスの常識を信じ続けていると、その大きな社会の歪にのみこまれるのは確実です。

社会の歪は過酷なものです。社会の歪は、経済的弱者をまっさきに襲います。しかし、その社会の歪をうまく利用できたとしたら・・・?

『情報社会』とは、インターネットなどの通信網の発達する時代だと思っている人が大勢いますが、実はそうではありません。『情報社会』とは「地域が価値を持つ時代」です。「知っている人」はドンドン得をし、「知らない人」は無残に毟られ続けて落ちていく。

どちらにまわるかは自由ですが、一人でも多くの人たちとともに「人生の自由」の土台となる「金銭的なゆとり」と「時間的なゆとり」を手に入れてもらいたいと思いながら全国行脚と情報発信を実践しています。

【過去】

現在まで多くの会員さんたちの新築・中古を含めた不動産投資や土地活用のお手伝いをさせて頂きました。その金額は土地活用60億円、不動産投資20億円になります。

相続のアドバイスの現場で、いつも不思議に思うことがあります。相続と言えば、大手アパート専業メーカーがほぼ市場を独占しています。

「相続税の節税になるからアパートを建てましょう!」

家賃保証を武器に、地主さんに夜討ち朝駆けの営業攻勢を仕掛け受注を獲っていく手法です。しかし、ホントウの相続税の節税とは、「分割対策」と「納税対策」、「圧縮対策」の三つがそろってはじめて節税です。日本人の被相続人の悩みは、その資産のほとんどを不動産が占めることです。さらに、不動産を持っていても納税資金がないから悩んでいるのです。

ですから、借金でアパートを建てる前に、その土地を売却して中古のアパートを購入すれば翌月から家賃収入が入り、納税資金ができます。

しかし、その事を誰も言いません。

いったいナゼなのでしょう?

実は、大手アパート専業メーカーや融資する銀行が儲からなくなるからです。

確かに、中古の収益不動産を購入するより、新築のアパート・マンションを建てるほうが、近所の人たちの手前、カッコよいのは事実です。
しかし、その一方で、建物が完成するまで時間がかかりますし、全額借入金であれば金利も必要です。さらに、新築の場合、建設会社の利益がのっているので、収益率は悪くなります。節税し、納税資金対策をしたいのであれば、相続財産である土地を売却し、中古物件を購入するほうがよほど良いのです。

世の中とは、こんなものです。カラクリとまでは言いませんが、美辞麗句の陰にはこのような現実があると思ってまずまちがいないでしょう。

私は、相談者のことを一番に考えます。その結果が、土地活用60億円、不動産投資20億円です。

■ 徳島生まれ

木内淑規(きのうちとしのり)は1962年5月11日に、徳島県徳島市仲之町で生まれました。その日から、どんな生活をして育ってきたのかについて、ここから公開(後悔?)したいと思います。

■ 意識がはっきりする小学校低学年までの出来事

小学校二年生の時、近所のお好み焼き屋のオバちゃんが「トッちゃん(私)のホントウのお母さんは美人だったんでよ!」と、お好み焼きをひっくり返しながら言った光景を今でも強烈に覚えています。

確かに、当時の小学校の参観日に来る祖母は、どんなにひいき目に見ても他のお母さんよりも歳を重ねています。また、祖母と暮らしている家に、友達のように父親は帰ってきません。

どうやら、私が1歳過ぎの時に父と母は協議離婚したようです。

今は亡くなった祖母に聞いた話では、私の実の母は、父の女遊びが原因で、1歳の私を抱きかかえ、泣きながら実家に帰ったようです。

その二日後、私を取り戻しに来た父から逃れるため、実家から2kmもある山道を駆け上がり、四国八十八番十番札所 切幡寺の山門でとうとう力尽きて私を手放しました。

だいぶ後になってオバから聞いた話では、その後、母親は1ヶ月も泣き続けたと聞いています。

私を取り戻した父は、1歳の私を祖母に預け、その後、一向に帰らず、女遊びを続けました。そして、数年後、結婚し、二人の子供を作りました。私から見れば継母と異母弟ができたわけです。

お好み焼き屋のオバちゃんは、さらにまくし立ててこう続けました。

「あんたもこれから大変やけどがんばりよ・・・?!」

■ 警察に保護された5歳の頃

「今日から新しい家で暮らすんでよ!」

祖母のルリ子が私にそう言ったそうです。物心つかない私は、1歳から一緒に暮らしてきた祖母を母親だと思っていました。

祖母の姿が消えた後、父親と継母が暮らす家から、一人で祖母の姿を追い求め、その途中、警察に保護され祖母の家に連れて行かれたそうです。

そして、その後、小学校5年生まで祖母と暮らしました。

■ 継母との確執

小学校5年生の頃、私は実の父親に引き取られ、父と継母との間にできた4歳、6歳違いの異母弟の5人で暮らし始めました。そして、通いなれた小学校も転校することになりました。

当時の父は、毎日、仕事で、夜遅くならなければ帰宅しませんでした。学校から帰って夜眠るまでの間、継母と異母弟と暮らす毎日は、決して居心地が良いものではありません。

私の父は、木造一戸建ての古い借家を借りていました。外部も内部もボロボロです。私の部屋は、昔よくあった木造の天井の低い雨の日の洗濯物干し場の一角。立ち上がれば頭を打つ納戸のような場所でした。ねずみやくもがいっぱいで、夏は暑く、冬は寒かったのを覚えています。

それ以上に私を苦しめたのは、食事と洗濯です。夕飯はいつも一人、自分の洗濯は自分でする、徹底的に異母弟たちとは差別される毎日でした。今で言う「継子(ままこ)いじめ)でした。

その小学生時代の悔しく歯がゆい思い出は、私の価値観を大きく変えたのは間違いありません。それは、何かと感じるコンプレックスやマイナス志向になるクセが、大人になるまで続いていたように思います。

まあ振り返ってみると、この頃の体験が今の私にあたえている影響は、さまざまな面で結構あるように思います。

現在の私は、良くも悪くも何でも自分でやろうとする方なのですが、この頃の影響で「自分自身がしっかりしなきゃ・・・」という気持ちがあるようです。

■ 陸上競技にのめりこんだ中学時代

小学校の頃、テレビアニメの「巨人の星」を影響を受けていた私は、小学校3年生の頃、野球クラブへ入りたくて父親に相談したことがありました。

そのときに言われたのが「グローブやバットなどおカネがかかるのでダメだ!」とあっさり。ひとりで夜遅くまで壁を相手にピッチングするのが日課になりました(泣)。

そんな中、中学生に進学し、打込んだのが陸上競技です。
小学校の頃、運動会の徒競走とリレーには命を賭けていました。勉強も苦手な方ではなかったのですが、足の速さでは常に学年の5本の指に入っていたような気がします(今はダメですが・・・)。

また、小学校高学年の時には、陸上競技や水泳大会、体操競技の大会に借り出され、細身ながらスポーツ万能の健康優良児を自負していました。中学生になった時、部活動で一番にやりたかったのは幼い頃から続けていた野球でした。しかしながら、小学校3年生の時に、父親と継母から少年野球を断念させられた経緯もあり、おカネのかからない陸上部を選びました。

種目は、走り高跳びや棒高跳びの跳躍系も練習しましたが、1500mや3000m、5000mの中長距離走に熱中しました。毎日、黙々と、20kmは走りこんでいました。その結果、クロスカントリーや陸上競技大会で優秀な成績が目に止まり、大人に混じって全県的に開催される駅伝選手に選ばれました。

しかし、残念ながらインターハイ出場の標準記録にわずか10秒届かず、非常に悔しかったことを今でも忘れられません。

この頃、「毎日、なにを考えて黙々と走りこんでいたんだろう」と思うことも有りますが、とにかく苦しいので歩こうという誘惑を封じ込めて走り続けたのを覚えています。それが、大人になった今の忍耐強さに繋がっているような気がします。

■ 貧乏・・・!

私の父は、自衛隊に入っていた時期があったと聞いています。そして、その後、タクシー会社に就職し、会社の従業員が起こした事故処理係や配車係、自らも運転手をしていました。しかし、地方のタクシー会社では社員の福利厚生も充実しておらず、また、継母はその給料の少なさをよく嘆いていました。

ですから、私の服などは二の次で、いつも父親のお下がりを着せられていました。そんなみすぼらしい外見でしたので友達と遊ぶ際、どうしても服装の点で違和感があったように思います。

当時、友達は、1足1000円もするマンシングはBVDの靴下を自慢していましたし、一着5000円もするカッコよいチェック柄のシャツや8000円はするであろうLeeのジーパン、メーカーもののスニーカー。

その一方の私はというと、ボロボロのティーシャツに父がはき古したスラックス、洗濯が間に合わないので靴下も履かず、無名のボロボロのスニーカーです。当時、友達がうらやましかった反面、「自分だけどうして・?」、「うちは貧乏なんだ・!」と情けなさを感じました。

しかし、友達たちは、そんな私をからかいはするものの、いつも一緒に仲良く遊んでくれました。野球や街へ自転車で繰り出すのも一緒。お祭りや映画にもよく行きました。

現在、それぞれ進む道は違ってしまいましたたが、やはり持つべきものは友達です。今でも懐かしさのあまり、たまに携帯電話で近況を報告しあったりしています。

■ 18歳で初めて知った実母の死

18歳になったある日、父が私に、「裁判所からの書類」を手渡しました。1歳半の時に別れたままになっている母親の遺産相続に関しての裁判所からの呼び出し状です。

父と協議離婚した母は、数年後、大阪に出て再婚し、二人の異父弟を設けた後、私が10歳だった8年前の12月28日に、心臓発作で38歳の若さで死んでいました。

その後、実母のオバにあたる資産家が亡くなり、私の母がその相続人にあたり代襲相続で私に呼び出し状が届いたわけです。

そして、その呼び出し状の日時に裁判所を訪れると、生まれて始めて母方の親族と会いました。その時、「実印をプレゼントさせてもらう」と言われ、相続放棄の書類に捺印させられました。

今思えば、意味もわからないうちに相続放棄させられたという大人の手口に嘲笑気味の気分ですが、大人となった今ではそれも良い思い出なのかもしれません。

その時以降、今まで生まれてから完全に疎遠だった母方の親族との交流も始まりましたし、また、初めて「お金と人間」について考えさせられた一幕でした。

■ 大学出に負けない!

高校時代、勉強は良く出来た方だと思います。地方の公立高校でしたが、成績順のクラス分けでは上位1番か2番に入っていました。

入学当初は国立大学を志望していましたが、卒業する頃には複雑な家庭環境を省みて断念せざるを得ませんでした。案の定、父に進学について尋ねてみましたが、「弟もいるのでやめてくれ!」と言われました。

後日、残念だったその頃の気持ちは、「自分の子供だけは絶対に大学に行かせてやる」という反面教師になっているように思います。

18歳の時に自動車免許を取り、数万円で買ったポンコツ車を買いました。初めてドライブに行った時の喜びは今でも忘れられません。

しかし、翌日、質屋の息子である友達と待ち合わせた時、その友達は日産スカイラインジャパンの新車に乗ってきました。

当時の日産のスカイラインジャパンといえば、石原プロモーション制作、石原裕次郎と渡哲也共演の「西部警察」で毎回出てくる大人気の車でした。

私も欲しくてたまらなくなり、日産のショールームで試乗したり触ったりしていましたが、当時のお金で250万円もし、親の援助なしではとても買えずにあきらめていました。

その車を、同い年の友達が乗ってきた衝撃は今でも忘れられません。
やはり、親の経済的な力によって「いったいこの差はなんなんだ」とさらなるコンプレックスを感じました。

自分より勉強が不得意にもかかわらず、県外の大学へ進学する多くの仲間たちの歓送迎会に行き送り出す度に、「仕事でがんばって4年後、大学を出てきた奴より多く稼ぐようになっていてやる」と思ったものです。

あれから30年、自分の子供に言い聞かせていることがあります。息子に向かってよく言うのは、「20歳までのおまえの評価は親がする。しかし、20歳を過ぎればおまえを評価するのは社会だよ!」と・・。

今となっては、子供の時にチヤホヤされていた友達ほどさまざまな面で苦戦しているように思います。やはり、さまざまな面で社会をなめてかかってきたか、もしくは壁に対する対処の方法が安易なのかもしれません。

■ 「焼いて食うなり好きにしろ!」と言われたホンダ時代

私は、地元のホンダ車を扱う自動車販売ディーラーに就職しました。最初に頂いた給料は8万円。当時、10年勤めていたベテラン事務員さんの給料16万円の半分しかありませんでした。

当時、社員みんなの前で紹介されたときに、当時の専務取締役が言った言葉を今でも覚えています。

営業部長に専務は、「こんなどこの馬の骨とも分からん奴は続くかどうかわからない。焼いて食うなり好きにしろ!」と言われました。

営業は数字がモノを言う世界です。当時、1台販売するごとに5000円の販売奨励金が付きました。

しかし、当時のホンダはシビックとアコードしかありません。後はオートバイです。
しかも、シビックという車は、エンジンは優れるものの、わずか1年ほどでサビだらけになる車体塗装の悪さや内装の品質の悪さはピカ一でした。分厚い顧客リストを渡され、毎日訪問するたびに浴びせられるお客様の声は「最低だ。銭返せ」の大合唱。ていのよい苦情係りです。また、今でも忘れられないのは、運転中に天井の内装材が突然落下し、あやうく事故になりそうな人がいたことでした。

そんな状況ですから、私の営業成績も月3台を売れるか売れないかでした。0台の時もあり「月給どろぼう」と営業会議でつるし上げにもあいました。

そんな状況でしたので、毎月手取りは10万円を超えることはめったにありませんでした。当時、給料を貰って家賃と水道光熱費、自動車のクレジットや燃料代を支払った残りが5000円という時も珍しくなく、家ではキャベツと水だけで暮らしていたように思います。

そんな時に出会ったのが、ナポレオン・ヒル著の「成功哲学」です。

当時、「今まで、そして現在のような貧乏はイヤだ」と思い、むさぼり読みました。おそらく三度は読んだでしょう。しかし、本で紹介されていた教材の値段は20万円もするのでとてもでは有りませんが購入できません。飲まず食わずで、給料3ヶ月分です。

仕方がないので、本の中で紹介されていた自己暗示の言葉を大きなカレンダーの裏に自分の字で書き、ベットの横に貼り付け、毎朝と就寝前、声を出して読み上げていました。

その内容とは・・?

「私は成功する。絶対に成功する。そのために努力する。そして、その成功の成果は誰にも邪魔されない」というものでした。

不思議なもので毎日読み上げていると、毎朝、元気が溢れてきます。会社に行って仕事をがんばろうという気になります。そして、自分は特別な存在であり、このまま努力を継続していれば、いつかきっと成功できるような気持ちになります。

しかし、1年ほど続けてみましたが、相変わらず営業成績は下位のままです。そんな奇跡は一向に起こりません。いくら既存顧客を廻ってみたところで、相変わらず罵声ばかり。新規来店客の所へ訪問しても、一向に契約が獲れません。

ただし、一つだけ救いがありました。

中学校時代の陸上部の監督に言われた「長い間、努力しても技術が伸び悩んでいても、ある練習量を超えると急激にのびる。でも、多くの人が、その努力しても、伸びないことで、練習をやめてしまう」という一言です。

実際に陸上競技でインターハイ出場まで数秒というレベルまで到達できたのも、その一言のおかげでした。

実際の練習でもそうでした。ある日突然、陸上の記録とは飛躍的に良くなるのです。それまで何度トライしても到達できなかった目標が、あきらめずに練習を続けていると、ある日突然、意識しなくてもクリアできるのです。

当時は本当に苦しい時期でしたが、その現実を知っていたせいか、その陸上部の監督から聞いた一言だけが救いだったような気がします。

■ そして出会ったPSS(プロフェッショナル・セリング・スキル)

ホンダ技研という会社は、教育熱心な会社です。また、当時から、私も後日、会社経営をしてから熱中したランチェスター戦略を実践していたように思います。

ホンダに就職した当初、ホンダの聖地とも呼べる三重県鈴鹿サーキットで、2週間もの泊まりこみで開催された新人研修。また、社長のススメで参加した根性重視の「地獄の営業マン研修」など、沢山のセミナーや講習会に参加させられました。よほどいつまで立っても上がらない営業成績が不愉快だったのでしょう。なかば嫌がらせのように次から次へと参加させられました。

そんな折、ある日、本田技研主催の1人15万円もするセミナーに参加させられました。開催場所はたしか大阪の都島周辺のホテルだったような気がします。

その高額なセミナーは、PSS(プロフェッショナル・セリング・スキル)といい、コピー機販売で有名な米国ゼロックスがパテントを持っている営業テクニックを主体としたセミナーです。

内容は当時としては珍しかったビデオとレジメ、音声カセットによる学習方式です。
ビデオにはジェフ・ベリー(今でも名前を覚えています)という営業マンが出ていて、顧客とのアポイント獲りから初回面談、そしてクロージングまで、営業マンと顧客の心理の移り変わりをバックヤードの声としながら物語が進んでいくものでした。

そして、レジメと音声カセットでは、営業テクニックが実例とともに体系立てて進められ、カセット音声が質問の箇所にさしかかると講師がカセットを止め、参加者を指名し、指名された者が回答するという一風変わったものでした。

しかし、内容は非常に理解しやすいだけでなく、営業マンとしてさまざまな質問を繰り出して顧客心理をしゃべらせ、いかに説得し、さらにどのようにしてテストクロージングし、成約していくかというものです。

そのセミナーで学んだ事を、実際の顧客との商談の場面でひとつひとつ実践してみると、不思議なことに次々と契約が獲れました。そして、その数も毎月5台という標準的な営業マン1人当たりの成績にとどまらず、2倍以上の販売台数まで到達してしまいました。

その後、徳島という小さな商圏でありながら、中国四国地方の強敵を抑え、5年連続中四国ナンバーワンセールスマンにまで上り詰めてしまいました。

しかもそれだけではありません。

普通のサラリーマンと比べると長い就労時間でしたが、それでも毎日深夜まで働くこともなく、短時間で周囲の営業マンの2倍の販売実績を、毎年コンスタントに上げることができました。

そうなれば社長をはじめ、当初、「焼いて食うなり好きにしろ!」と紹介した専務、販売部長も驚き、メーカーの本田技研のみならず社内でもさまざまな表彰を頂きました。

その時に、拍手していた女性事務員の一人が今の家内です。

■ 支店長時代

一躍、期待の星に踊りだしてしまった私に、ある日、降って沸いたような昇格の内示がありました。それは、2年前に開設した新規店舗の支店長です。

実はそのお店は、新しくつながったロードサイド郊外型の店舗で、以前、他の大手ライバル自動車メーカー日産が出店した後、撤退したお店でした。

案の定、一人目、二人目の支店長もうまくいかず、赤字が1億円以上も累積していました。さらに、その二人も責任を問われ、次々と退社しています。

あまりにも調子に乗って有頂天になりすぎていたのがいけなかったのか・・・?
経営者のご機嫌を損ねてしまったのか・・・?
給料を貰いすぎてしまったのか・・・?
それとも本当に期待されているからなのか・・・?

販売成績が良くても支店のお金の計算なんて、とてもではありませんが経験はありませんし、また、サービス部門の社員の統率なんて、こなせる自信は皆無でした。とうとう、自分にも前の店長と同じように、身を引く時期が来たのかもしれないとまで思い詰めてしまいました。

しかし、そんなことなどお構いなしに、その昇格話は現実のものとなり、累積赤字1億円を解消する使命を頂いた私は開き直って就任しました。

しかし、それからが苦労の連続でした。

自動車を沢山販売して赤字解消を目論んでも、モデルチェンジの谷間で販売できる車種がありません。もともとホンダというメーカーは車種が少ない上に、名前が売れていたのはシビックとアコード、シティだけでした。そのうち、当時のメーカーの販売網の整理から、戦略車種のシビックが取上げられた直後でした。

5人の営業マンと来る日も来る日も深夜まで働き続け、叱咤激励しても売れません。あまりの厳しさに入社直後の営業マンは退社してしまいました。早朝5時からスタッフ全員でチラシ配布してみたり、朝礼をみっちりやってみたり、ありとあらゆる方法を試みましたが、支店の成績は今一歩です。

赤字はさらに膨れ上がり、今、思い返しても長く厳しい時期でした。しかし、ある日、お店の売上げ推移を見ていて、あることに気がつきました。

それは・・・?

新車の販売による売上げは、メーカーのモデルチェンジやマイナーチェンジや月度によって大波で不安定です。その一方で、サービス売上げは、あまり大きな波はなく、ほとんど一定です。

さらに驚いたのは、その利益率の高さです。

新車のそれは、150万円の自動車を売っても支店の粗利益率は10%程度です。
確かに600万円の車種を販売すれば100万円の粗利益は計上できますが、それでも粗利益率は16.6%です。さらに下取り車があった場合、その下取り車が販売できない限り、代金を100%回収できたことになりません。

しかし、サービスの売上げは、新車販売の売上げに比べて金額は劣るものの、粗利益率は50%もあります。月2000万円コンスタントに売り上げれば1000万円、3000万円なら1500万円です。

「なんとかサービス粗利額の範囲以下で、支店経費の全てをまかなうことはできないか?」

もし実現すれば、新車の販売で上げる利益は丸儲けです。支店経営も安定するでしょうし、その結果、毎日笑顔が出れば新車販売にも良い影響がでるでしょう。

とにかく自動車を売って儲ける根性論から一転し、お店のサービス向上に努めました。

当時の自動車販売会社は、納車の際に自宅まで届けるのが一般的でした。しかし、それをお店にまでご来店いただき、全スタッフ整列で「納車式」を執り行い、鍵の手渡しや全スタッフの紹介、お祝いの言葉、花束贈呈など、たとえ新車商談のお客様がいようがお構いなく(待ってもらって)、最優先で行いました。

不思議なもので、そのように待たされた商談客ほど成約率も高く、そのお客様も迎えにいってでもお店で納車式を徹底しました。

さらに土日の展示会には、切花を飾り、女性スタッフには1着10万円もする真っ赤なブレザーを着用させました。さらに、修理で来店されるお客様に対して名前で呼べるようにコンピューターのデータベース化を徹底し、「いらっしゃいませ、○○さん」と呼べるように工夫しました。その方法はメーカーが行っていた顧客満足度事例で紹介されました。

そのおかけで、私が支店長を勤めた3年の間、累積赤字を一掃でき、逆に5000万円の黒字になりました。この支店長に経験したことは、現在の会社経営やアパート・マンション経営に受け継がれているように思います。

会社経営やお店の経営でも最も大切なことは、広告をしなくても仕事を依頼してくれる常連さんの満足度です。仮に、毎回毎回、新規客を獲得する体質であれば、多大な広告費や素晴らしいロケーションの場所に店舗を構えなければなりません。

しかし、そのような新規客ばかり狙う企業やお店は、いつまで経っても「狩猟型ビジネス」でしかありません。第一、延々と広告を打ち続けなければ生き残れないのであれば、いずれ広告費がモルヒネのように体力を奪います。その一方で、常連さんの売上げと粗利益だけで会社の固定費を賄って余りあるのであれば、その企業の存続は比較的容易です。

実際、このことはバブルでボロボロになった日本人に勇気を与えたロバート・キヨサキ氏著の「金持ち父さん、貧乏父さん」の中でも論じられていますし、それ以外の資産形成本や経営指南書にも登場します。

いずれにしても、この支店長当時の経験は、後の私の思考回路に大きな影響を与え続けているといえるでしょう。

■ 畑違いの建設業に飛び込む!

私は28歳に結婚し、29歳にホンダの支店長を最後に、家内の実家の小さな建設業に入社しました。

それだけの実績をホンダで残したにもかかわらず、なぜ退職したのか?友達からもたくさんの質問をされました。ここではその理由について述べたいと思います。

それは結婚する前に妻に言われた一言でした。
「いくらがんばってもホンダの社長にはなれないよ!」。確かにそのとおりです。あのまま社畜(しゃちく)のように働いて実績を積み上げたとしても、しょせん、いつまでたってもサラリーマンでしかありません。

それよりも、自らの人生を自由にコントロールしたいと思いましたし、残念ながら家庭に恵まれなかった成人までの日々の記憶がよみがえったのでしょう。

「時間的ゆとり」と「金銭的ゆとり」を手に入れ、楽しい家庭を築く事のほうが価値があると感じました。

また、妻の父も養子だったことも大きな要因でした。
私自身の生い立ちを考えると、幼い頃から長男でありながら父とも縁遠い存在でしたし、継母との確執の経験もありました。

当時、ホンダでは20歳代後半にもかかわらず600万円程度のサラリーがありましたのでもったいない気もしましたが、思い切って年間所得200万円の建設業の世界に飛び込みました。

今思い返えせば、よくあんな無謀なことをしたものだと思います。

■ 建設業での再出発

「郷に入れば郷に従え!」

その言葉は知っていましたが、建設業の世界はそんなに甘いものではありませんでした。今思えば、建設業の職人さんたちの意識の違いもあれば、その慣習や現場で使われる言葉の難解さなど、ありとあらゆる点で違和感をおぼえました。工事現場ではいじめられ、当時の社員には馬鹿にされ、同業者にはののしられ、やっぱりあのままホンダでいればよかったと何度思ったことでしょう。

そして、妻に八つ当たり。

さらに今までしたこともない肉体労働やダンプの運転。
さらには気を失うような単純労働の連続。
毎日、酒に溺れ、モンモンとした日々。
確かに、大切な人生経験でしたが、今思えばあの時間がもったいなかったような気がします。

そんなモンモンとした時期に、以前の営業部長から電話があったことを覚えています。私が抜けた後、会社の業績が上がらずに社長に詰問されて困っているから戻ってくれというものでした。当然、心が揺れましたが、妻の泣く顔は見たくありませんし、同業者や当時の社員からシッポを撒いて逃げ出したと思われたくありません。

数日間、夢に見るほど悩みましたが、その誘いはお断りしました。そして、相変わらず、モンモンとした建設業の日々を続けました。

■ 養父の選挙での敗北

建設業は経験がモノをいう世界です。建設業に入ってかなり経験を積み、公共工事や民間工事の現場管理、施工管理、品質管理、安全管理など一通りのことは出来るようになりました。また、各種の建設業に関連するさまざまな国家資格を取得しました。中にはかなり難しい部類のものもありましたが、ほとんどを一度の受験で取得しました。

そんな矢先、義父が首長選挙に立候補したいと言い出しました。義父は40歳の頃から議員になり、当選6回を数えていました。そして、政治生命をかけて出馬したいというのです。妻は大反対でしたが、私は「後で出馬しなかったことが心残り」だといわれては困るので、出馬を後押ししました。最後は妻もしぶしぶ同意しましたが、8ヶ月にも及んだ運動や保守的で閉鎖的な地方の一都市での選挙に、家族全員ボロボロになりました。

そして、結果はどうだったのかというと、やはり当選3回を数える現職の壁は厚く、無念の敗北という結果に終わりました。そして、その敗北後、家族全員、頭の中が真っ白になり泣き崩れた様子を今でも強烈に覚えています。

やはり世の中は思い通りにいかないということを改めて感じましたし、ヤル気だけではどうにもならないことは多々あるということを再認識させられました。

この時の経験は、人という点で私に大きな影響を与えました。人というのは現金なもので、自分の腹が空いている時には足しげく通ってくるのに、満腹になれば去っていくもの。こちらの景気の良いときにはご機嫌伺いにせっせと足を運ぶくせに、いったん落ち目になると寄り付きもしなくなるもの。これが人の世の常です。しょせんそんなものだという感覚は、今でも強烈に心に残っているような気がします。

しかし、現実はもっと大変でした。

選挙で敗北した義父は、もうこれを最後隠居するというのです。それも再度、議員選挙に出ないというだけでなく、会社経営からも一切身を引くので後は好きにしろと言われました。

地方の保守的な一都市の占拠といえども、かなりの費用がかかりました。選挙に敗北して慰めてもらったとしても、その費用を支払っていかなければなりません。決して、銀行は猶予などしてくれるはずもありません。途方に暮れた私は、その時の顔写真を撮影し、今でも何か事があれば見返しています。

そして、本業である建設業を必死で続け、選挙の遺産である借入金の返済を必死で続けました。

ある日、工事のあいさつに伺った家の主人に、「まだ会社続けていたんやねぇ~。選挙に負けたのでもう廃業か倒産したのかと思っとった」と言われたことがありました。その後、怒りの余り頭から湯気が上がり、しばらく車の中で悔し涙を流したのを今でも覚えています。この義父の選挙での敗北は、私に人の薄情さを思い知らせてくれる出来事でした。

さらに、自分がしっかりしなくてはというプレッシャーを、さらに強固なものにしたような気がします。

■ 自分の土地活用とコンサルティング

選挙の借金を返済するために、私は必死に働きました。一方で、全ての土地を一覧表にして、土地を三つに分類するたな卸しを行いました。自分や家族が住む土地と有効活用できそうな土地、どうしようもない土地の三種類です。

なぜ、そのようなことを始めたのでしょう?

それはある経済学者の本を読んでいたからです。その本とはロシアの経済学者コンドラチェフが書いた本です。その本の中に、「インフレ40年、その後デフレ20年」という学説を見つけました。

日本では1945年に第二次世界大戦が終わり、その40年後の1985年にバブル経済が始まりました。そして、その5年後の1990年に膨れすぎた異常なバブルははじけ、インフレ時代は終わり、それから以降、デフレ経済は20年後の2010年まで続くというものです。

ちょうど義父の選挙があったのは1999年ですので、それから以降10年間は地価下落が続き、決断が遅れれば遅れるほど土地は資産でなくなると予測しました。その後予想通りバブル崩壊後25年間連続で地価の下落は続き、土地神話を信じ続けている人たちは途方に暮れているといっても過言ではありません。

インフレ時代は、本業で儲けたお金を土地に換えておきさえすれば土地の価値は複利のごとく増え続けていました。極端に言えば、本業などどうでもよかったのです。しかし、デフレ経済下ではよほど本業をしっかりと行わないと、立ち行かなくなるのは必定です。

幸いにも私は、そのコンドラチェフの波という学説を知っていたので、何とか無難な価格で販売することができました。あの時に決断できずにズルズルと先延ばしにしていればと思うと背筋が寒くなります。

【未来】

私の不動産に関するコンサル実績は、土地活用60億円、不動産投資20億円ほどです。さらに相続コンサルなども含めると、さらに上積みされるでしょう。

私の会員さんは全国にいます。中には、35室の一棟マンションを相続したものの入居者数5室を満室にする究極の空室対策のコンサルティングや高齢者賃貸住宅コンバージョン、不動産投資の物件調査から経営コンサルティングも数多く成功させてきました。また、住宅ローン破たん者の救済コンサルティングや全国の建設・不動産業者の生き残りのための集客コンサルティングをしています。

もちろん、自社のスタッフとともに建設・不動産も続けています。

あなたが毎日の生活を振り返って、

毎日、通勤電車で会社に通うのはイヤだ!
いやな上司にゴマをすっている自分がイヤだ!
物価は上がっても給料がなかなか増えない!
将来、年金がどれぐらいもらえるか不安だ!
もっと時間的なゆとりと金銭的なゆとりがあれば?

などと考えているのであればある意味不幸です。

「いつになったら一息入れることができるのか?」また、「人生の本当の価値を見つけたい!」と思うのであれば、是非、私にお声をかけてください。ご一緒に、『自分自身のために収入を生み出してくれる「仕組み」』を作りましょう。そのための最短の近道として、「不動産投資」は最適です。

ただ、全国制覇を狙うショッカー(昔の仮面ライダーに出ていた悪役)のようにしたい方は私には重荷すぎます。もっとスゴイ人をお探し下さい。私の目的は、「あなたとあなたの家族を幸せにし、ライフスタイルにおいて好循環をもたらすさまざまな人生と不動産投資のノウハウを身に付けて頂くこと」です。

あなたが街を歩いていて、「あなたにとっての人生とはなんですか?」と聞かれたとすれば、それは明らかに宗教団体の入信への勧誘です。いつの間にか家庭でも学校でも、友達同士でも、「人生について語ること」が少なくなったような気がします。

大リーガーのイチローやプロゴルファーの石川遼を見れば、
「あのようになれる確率は低い、しっかりと勉強して有名大学に入り、有名な大企業に就職するのが良い」
確かにそれも正解です。

現在の日本の教育システムは優秀なサラリーマンを作るためのシステムでしかないような気もします。その理由は、お金や人生の過ごし方などは教えてくれないからです。

私たちは、「運命」という枠内でしか生きることは出来ません。ですから、さまざまな制約があります。結局、人生の二割程度しか自由で前向きな人生を送れないのかもしれません。

残りの八割は、日本というシステムに依存しながら、また選んだ道によってある程度は固定され続けるでしょう。あなたに残された自由でポジティブな部分はわずか二割の部分です。

バブル崩壊から20年。これから5年間の調整期間を経て、あらたなインフレが始まります。インフレと聞けば、物価の高騰を連想してしまいますが、悪い時代ではありません。

現在の私たちは、不確実で真っ暗な大海原へ投げ込まれた状態です。これから数年間の調整期間の過ごし方ひとつで、次の新しい時代にどのような自由を手に入れるかが決まるでしょう。

私はバブル崩壊後、すごいなと憧れていた人たちの生活が荒廃し、破滅していく姿を沢山見てきました。また、インフレ時代の常識から脱することが出来ず、破たんしていく人たちも見てきました。しかし、それも誰のものでもない自分の人生だというしかありません。

不確実で真っ暗な大海原に投げ出された私たちの人生。

それをただ、あせるあまり、やみ雲に漕ぎ出せば難破するか沈没するかしか残されていません。

船長はあなた自身です。自分がライフスタイルの主役であるという認識が必要です。

このちょっと(かなり)長いプロフィールを最後まで読んで頂き、誠にありがとうございました。自分の人生の恥ずかしい部分も含め、書き連ねました。もはや付け加えることはありません。

後はひとりでも多くの方が、私の下記のような情報発信の中から「人生のヒント」や「不動産投資のノウハウ」、さらに「自由な人生の構築方法」などを見つけていただければ、それだけで十分です。

ご一緒に、数年後に訪れる新時代に備えましょう。

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今後の私の活動予定を、最後にカンタンにお知らせしておこうと思います。これからも全国の仲間たちのための全国行脚を続けます。さらに、情報社会を飛躍的に向上させるインターネットを利用した情報配信も続けていきます。そして、最終は60歳になった時に、引き出す必要のない1億円の金融資産を多く持つ資産家を育成していきたいと思います。

特に、不動産がもたらせてくれる「時間的ゆとり」と「金銭的なゆとり」は、あなたの労働時間と無関係に、毎月、必ず一定の家賃収入をもたらせてくれます。安定的な収入があれば、事業をしてもリスクを取ることができますし、うまくいけばさらなる成長も実現することができます。また、時間的なゆとりができれば、各分野の有名人に合うこともできます。スポーツジムに定期的に通って健康維持も可能です。さまざまなスキルを身に付けることも可能でしょう。もっと言うなら、自分が成長することで得られる新たな人脈や出会いも可能です。

そのような経験は、あなたの人生にとって、後々、重要な資産になるでしょう。

自分の人生の夢や目標を達成するための一助として、お付き合いしていただければ、うれしいことはありません。

 

~あなたに昼が陽の光に満ち~
~あなたの夜が愛に満ちたものでありますように~

JUST DO IT.

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